2022年 2月14日

「世の中興奮することたくさんあるけど、一番興奮するのは○○だね」
「間違いないね」

 

というのはサンドウィッチマンの定番だが、世の中興奮することはたくさんあるけど、一番興奮するのは面白いブログやウェブサイト、noteまとめると書籍化されていないネット上の読みものを見つけることだ。三ヶ月に一度くらいそういう出会いはあるが昨日はなんと一日にふたつも見つけた。

 

ひとつは在野研究者の荒木優太さんによる「きみはウーティスと言わねばならない」。2016年、晶文社SCRAPBOOKに連載されていたもので、昨日は第一回「「誰でもない」を生きること」だけ読んだ。ホメロスオデュッセイア』のウーティスのエピソードの紹介からはじまり、責任を拡散することによる連帯責任、それがもとで起こる責任のインフレ、その反転=無責任と過去の論者たちを参照しながら議論をすすめていき、「匿名性がもつ、社会的な可能性とその暴力性を見極めること。「誰でもない」からこそ誰にでもできる小さなヒロイズムはここから始まる」と結論付ける。荒木さんらしい、鋭い論点を持ちながら、それでいてエンカレッジされるような素晴らしいテクストだった。毎日少しずつ読んでいきたい。

 

もうひとつは、「文学通信」の連載、尾形大「「文壇」の誕生と終焉―川端康成伊藤整からたどる日本近現代文学史」である。これも第一回だけ読んだ。伊藤整などによって「「文学史」の枠内で遡及的に形成された「文壇(史)」と、その時々の文学者がアクチュアルな形で向き合っていた「文壇」とは、けっして同義ではない」という指摘が鋭いなと思った。「文壇」という語の定義がひととおり済むと、論は川端康成伊藤整の関係にうつる。伊藤の葬儀での川端の印象的な言葉を引用し、「「文壇」の変革期にその片隅で出会った彼らはそこに参入し、モダニズム期・文藝復興期・戦時期・戦後の「文壇」と向き合い、「文壇」をけん引し、そして明治期から連続する場としての「文壇」を作り上げていくことになる」と結ばれている。この結びやタイトルから考えてもおそらくはこれから川端と伊藤が中心に論じられていくのだろう。伊藤整は、最近曾根博義のエッセイを読んでいてとても気になる作家なので、連載をよく読んで勉強したい。

 

さて、2021年2月15日からはじめたこの日記を今日で終わらせるつもりでいるのに、人の文章の要旨をつらつらと書いてきてしまった。強いて話をつなげるなら、彼らのテクストと自分の日記をくらべるとその文章力のあまりの差に愕然としてしまう、ということだろうか。批評と日記、というジャンルの違いはあれど、ひどい。

ただ、これ以上日記を続けてより上手く書きたいとはあまり思えないというか、ぼくに日記を書くきっかけを与えてくれた福尾匠さんが最後の日記で「これ以上続けたら本当にやめられなくなってしまうのではないかということが怖い」と書いていたとおりだ。もう終わらせなければいけない。

日記は妙にクセになる。前日の日記を書く時「その日は」と書くか「昨日は」と書くかで30分くらい迷ったりするくらいめんどうなのに。(「めんどう」は「面倒」のほうがいいのだろうか?)

むずがゆさをおさえながら約一年前に書いた日記を見返してみると、今とは生活が違いすぎてまるで別人のようだ。友人のM君や恩師のI先生の名前が頻出しているが(おそらくちょうど1年ほど前には毎週あっていたんだろう。それすらもう思い出せないが)、もうここ三ヶ月くらい一度も会わないし、かつてほど会うこともこの先もうないだろう。

なんだか未練がましくいつもの何倍も書きすすんできてしまったが、そろそろ筆を擱く。散歩をしていて「病むことを止むことはできない」とか頭に浮かんでくる謎のフレーズを、あるいはテクストをどこに書きつけていこうか、明日からゆっくり探すことにしよう。

 

 

2022年 2月13日

夏葉社さんの新刊、曾根博義『私の文学渉猟』を結構前からじっくり読んでいる。近代文学について、つまり今からかぞえて100年くらい前のことを扱っている文章が多いからか、ゆったりとした時間を感じる書物で、折にふれてパラパラ読むのに適している。

 

今まで読んだ範囲では、1920年代から30年代に発行されていた伝説のモダニズム雑誌の幻の号を偶然ネットで知り合った人にコピーで送ってもらった、という文章がべらぼうに面白かった。文章が書かれたのはゼロ年代初頭。今でも残っている、その頃のウェブサイトや2ちゃんねるのスレッドには、非常に良質で今では考えられないほどマニアックなものがある。大衆化されてないネット文化みたいなものってまだ残ってるんだろうか。

2022年 2月12日

家に帰ると『MONKEY』の最新号が届いていた。『MONKEY』は唯一定期購読している雑誌で、今回は待望の翻訳特集(以前にも翻訳特集はあったようだ)。

 

さっそくジェームズ・ロバートソンの翻訳にかんする小説(のようなエッセイのようなもの)を読んだ。「翻訳」の原罪のような文章で文芸の西欧中心主義について考えさせられるが(最近YouTubeで久しぶりに川端康成伊藤整三島由紀夫の対談を見返したが、川端が「ノーベル賞とったわけだけど、日本語で読まれた訳じゃないんでしょ」という場面があった。きっとロバートソンの文章と関係がある)、どこか既視感があった。

 

たしか、2019年の国際フォーラムで柴田元幸さんの講演をきいたとき(伊藤比呂美さんと藤沢周さんもいて豪華だった)、このテクストを紹介されていたはずだ。あるいは、全文朗読だったのかもしれない。

 

ロバートソンの文章のあとは、柴田さんがヘミングウェイサリンジャー、オースター、ミルハウザーなどの作家の文体、そして翻訳上の注意点のようなものを書いている文章だったが、こちらも大変面白かった。最近英語を勉強し直しているので、まず原文を読んで自分で試訳を頭にうかべて、柴田さんの訳文を読む。なにか気づく。そんなことをやった。贅沢な時間だと思う。

2022年 2月11日

「可愛い嘘のカワウソ」というキャラクターは、恐らくここ一年で最大クラスのマイブームである。その展示が立川でやっているときいて出かけた。

 

立川についたのは昼過ぎで朝食も昼食も食べていなかったから、なにか食べようと思い「立川 ラーメン」で検索。昔から指がオートマチックに「地名、スペース、ラーメン」と動くことに検索結果が出てから気づいて我ながら笑えた。

 

立川は「隠れラーメン激戦区」らしく、おいしそうなお店がたくさん出て来たが、気分的に二択に落ち着いた。いわゆる二郎系か油そばか。しかし、これからルミネにいっておそらくは人ごみの中に入るんだしニンニクの臭いはちょっとなあ、と油そばに決めた。こういうのが「自粛」だ、と思うコロナ禍二年目の二月。

 

 

2022年 2月10日

最近まずいものを食べるときにルナティックな歓びを見出すことがある。逆張りなのかもしれない。でも、ファストフードとかコンビニ飯とかうっすら美味いものが溢れている現代、思いっきりまずいものを食べた時に「うわっ、まず!」と思わず口に出す自分がなにやら楽しそうなのは、一体何なんだろう。

 

…日記ももうすぐで終りなのに、こんなへんな文章でいいのだろうかと思いつつ、終る。

2022年 2月9日

天気予報が明日は雪になるといっていたのでバイト帰りに色々買いこもうと西友によった。すると、ぼくと同じような考えの人でごった返していて(誇張ではなく)、結構並んだ。トイレ掃除の道具とか芳香剤とかお茶漬けのもととかいろいろ買った。

 

どうせ明日どこにもでかけないんだし、テレビを見たり本をぱらぱらめくったりして夜更かし。ツイッター社やゾゾに潜入する番組がなかなかおもしろかった。

2022年 2月8日

夜に読書会。課題本は疋田雅昭『文学理論入門』。

レジュメ作り、司会は自分が担当したが、国語教育とテクスト論の関係とか、人は論理的整合性のみで説得されるのかという話とか参加者が全員近代文学専攻かつ教職課程履修者だからか色々盛り上がった。参考した文献は小川洋子『物語の役割』、阿部公彦『病む言葉 癒す言葉 生きる言葉』、村上陽一郎『近代科学を超えて』。