2021年 5月4日

朝起きた(厳密には昼なんだけど)時、あれ、今日はなんの日だっけ?と考えた。なにか大切な日だったような、と直感したがなんの日だったか思い出せない。誰かの誕生日ではないし、自分には祝うべき記念日もない。と思いTwitterをみていると、どうやら5月4日シャーロック・ホームズと宿敵・モリアーティ教授がライヘンバッハの滝に落っこちた日らしい。

 

まだこんな日にちを覚えているんだな、と自分でもすこし意外だった。シャーロック・ホームズにハマっていたのは、中学のころだ。ポー、ドイル、クイーン、乱歩など、推理作家の巨匠のアンソロジーが図書館に置いてあって、その中に収録されている『まだらの紐』からハマったのだと思う。それから『緋色の研究』→『四つの署名』→『シャーロック・ホームズの冒険』...と読み進めていき、一通りは読んだ。一番好きな作品は、(決めるのは難しいが)『ノーウッドの建築業者』だ。

 

グラナダTVで制作された、ジェレミー・ブレット主演のドラマ版も大好きで、全て見た。ゴールデンウィーク最終日、ひさしぶりに見返してみようかしら。

 

f:id:osak1_m1d0r1:20210505112646j:image

2021年 5月4日

昼過ぎに吉祥寺に出かけ、らぁ麺(ラーメンではなく)を食べ、古本を買ってから、友達と待ち合わせる高円寺に向かった。1時間も早く着いてしまったので、以前から気になっていた喫茶店七つ森」のプリンを食べに行った。昔ながらの、やや硬くて卵の風味をつよく感じる良いプリンだった。

 

友達が、彼の友達を連れてきて、3人で何件か古着屋をまわった。五年くらいはいていたパンツが先日破れてしまい、新しいものを買うことにしたのだ。何件かまわった末に、オリーブ色をした、60年代フランスで中国移民が履いていたというパンツを買った。 

 

その後国立の「ロージナ茶房」でご飯を食べたあと、吉祥寺のスタジオで楽器を弾いた。友達の友達であるヒロくんは、ギタリストだった。僕は楽器を持ってきてなかったので、ミニギターを借りて2人で弾いた。

 

f:id:osak1_m1d0r1:20210504110912j:image

 

 

2021年 5月2日

ここ1週間くらい、ほとんど友だちと会わずに過ごしている。しかし、そんなに寂しいと感じることは無い。それはもともとそういう耐性があるということもあるが、SNSがあるからなんだろう。宇佐見りんの『かか』と『推し、燃ゆ』には、SNSでのつながりがほどよい距離感を保つ人間関係として描かれている。『かか』ではそれが母親との血縁関係という切っても切れないものとの対比で描かれているとも読めるが、それは置いておいて、SNSで繋がる関係が、最近の自分には健全だと思う。 

f:id:osak1_m1d0r1:20210503121411j:image

2021年 5月1日

5月初日。

以前から楽しみにしていた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』三部作一挙公開を新文芸坐に見に行った。

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー』は本当に大好きな映画で、三作とも何回見たか分からないが、三本立てつづけにみたのも、映画館で見たのもはじめてだった。

 

映画そのものが素晴らしかったのは言うまでもないが、観客の反応も良かった。「ヴァン・ヘイレン」や「イーストウッド」の名前が出ると観客の中に小さな笑いが起こったり、毎回映画が終わる度感想戦があちこちで繰り広げられていたり、「Part3」が終わると場内で拍手が起こっていたり。

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティとドクは、(おかしな言い方かもしれないが)1985年を起点にして過去や未来にタイムスリップする。1985年なんて2021年の僕達からみればもう「昔」だろう。2021年にタイムスリップしたら、マーティやドクはなんていうんだろう。やっぱりこういうんだろうか。

 

「ヘビーだ…」

 

f:id:osak1_m1d0r1:20210502171428j:image

2021年 4月30日

ここ数日朝から(別々の)予定があって、行きの電車の中で日記を書くようになっている。今この映画を書いているのも電車の中だ。

 

昨日は朝から立川の国文学研究資料館に、ないじぇる芸術共創ラボ展「時の束を披く―古典籍からうまれるアートと翻訳―」を見に出かけた。

 

アニメ作家、画家、小説家、翻訳家など現在活躍しているクリエイターが日本の古典にインスパイアされて生み出された作品が並んでいた。僕は以前から山村浩二氏の「ゆめみのえ」(上田秋成『夢応の鯉魚』のアニメ化)に関心があって、それが観られて満足だった。アレンジが加えられていたが『夢応の鯉魚』の幻想的で、(柴田元幸の文学アンソロジーに収録されそうな)不思議なユーモアが柔らかなタッチで描かれていた。

 

順々に展示をみていると、一緒に見ていた(もう退任されたが)大学の先生が、ある襖絵に目をとめた。そしてこんなことをおっしゃった。

 

昔の人は、家の中にあるこういう絵からいろいろ想像をふくませたのでしょうね。絵じゃなくても、昔の家の天井は木の板だったりして、その木目なんかをみて、いろいろ空想するのが楽しかった。今の家にそういうものってあるの?

 

こういう着眼点は、文学研究者ならでは、という感じがしてとても面白い。

 

f:id:osak1_m1d0r1:20210501101757j:image

 

 

 

 

 

2021年 4月29日

はじめてのゼミ発表があった。指導教員とゼミ生20人を相手に、松田聖子瞳はダイアモンド』の歌詞分析を発表した。

 

僕は、「なぜ語り手がこのタイミングで過去を語り始めたか」という着眼から、「ダイアモンド」という暗喩の変化について発表した。紙幅の都合上ディテールまでしっかり拾えていない大味な発表になってしまった。しかし、一定以上の理解と評価は得られたことが発表後のゼミ生の顔から分かったし、そこまで悪くなかったんじゃないかと思う。

 

それにしても、他のゼミ生の発表をきいていると、文学研究を「登場人物の醜い裏側、エゴをさらけ出すこと」だと思っているのか、という疑問を何度も持った。たしかにテクストを分析していてそういう結論や方向にいくことはあるが、なんでもかんでもエゴを解き明かす方向に帰着させるべきではない。少なくとも『瞳はダイアモンド』の語り手=主人公に「狡猾さ」を読むのは恣意的すぎる、と僕は考える。

 

話は逸れるが、僕は「人間らしさ=人間の醜い部分、エゴ」という考え方は大嫌いだ。人間の醜さやエゴがむき出しになったとき、「人間らしくていいじゃない」とかしたり顔で、わかったようなことをいうアホには、朝井リョウでも読んどけボケェ!と言いたくなる。(『何者』とか結構好きですよ)

 

f:id:osak1_m1d0r1:20210430120106j:image

 

 

 

2021年 4月28日

政府のいうことなんざ知ったこっちゃねえ!

という人が増えている気がする。緊急事態宣言の効果が毎回薄れてきているのが良い証拠で、それは単に人々が自粛に「飽きた」かもしれないが、五輪やワクチンの問題から今回は怒りの声が多くきかれて、やはりみんな怒っているんだな、と感じる。

 

そんな時代(と書いて「とき」と読みたい。J-POP感)に思い出すのが、ソローの『森の生活』だ。19世紀、著者ソローのウォールデン池(米国)のほとりで送った2年以上の自給自足生活をえがいた回想録。

 

ソローは誰の手も借りなかった。森の中でソローはひとり頭を動かし、手を動かす。食べ物を自分で調達するのはもちろん、なんと小屋まで自作してしまう。

 

「われわれは、家を建てる楽しみを、いつまでも大工にゆずり渡したままでよいものだろうか?」(ソロー『森の生活 上』岩波文庫 p87)

 

なにをいってるんだソローよ…と思いつつ、潔く、突き抜けたその態度、言葉には、読み返すたび胸が熱くなる。

 

誰もあてにせず自分の力で生活し、森の「外」にいる(自称)文明人達を卓越した知性で痛烈に批判する、そんなソローを読むと、路上に座り込み酒を仰ぐ無秩序状態の人々がひどく甘っちょろくみえてしまう(いや彼らは普通に酒飲みたいだけなんだけど)。もしできるなら池袋あたりにいって路上飲みの人々ひとりひとりに『森の生活』を配りたい。真の意味での「政府なんて知ったこっちゃねえ!」という態度を知るはずだ。

 

同時に、『森の生活』は「ステイホーム」を選択した人々にも深く沈み込むんだから、本当にソロー大先生である。ソローは、「孤独」というものについて次のように書いている。

 

「私は、大部分の時間をひとりですごすのが健康的だと思っている。相手がいくら立派でも、ひととつきあえばすぐに退屈するし、疲れてしまうものだ。私はひとりでいるのが好きだ。孤独ほどつきあいやすい友達には出会ったためしがない。」(ソロー『森の生活 上』岩波文庫 p244)

 

ほかにもボッチ生活を非常に肯定的に語るソローの名言は多い(そりゃそうだ、2年も森でボッチ生活してたんだから)。そろそろアベノマスクから1年経つくらいだろう。今年は(も)マスク要らないし、『森の生活』を全世帯に配布して欲しいと思う。

 

 

f:id:osak1_m1d0r1:20210429091544j:image