2021年 5月29日

「言葉のドレスコード」について考える。千葉雅也さんが昨日つぶやいていたけど、言葉にはドレスコードがある。敬語とかそういうものがわかりやすいんだけど、例えば大学の友達と話している時と高校の頃の友達と話す時のドレスコードは違うんだろう。この「ドレスコード」は『勉強の哲学』でかかれていた「ノリ」の話に近いと思う。「ノリ」をあわせるための言葉。

 

言葉を着飾ることによって、ある種のコミュニティに参加出来る、ということは多い。以前ぼくは関西の某私立大の国文科生をTwitterでフォローしていた。彼は芸能を専攻していて、ツイートの内容はレトロなもの、伝統的なものに限られ、その語り口も(それこそ伝統芸能)みたいに「粋」だった。それに彼は時折森見登美彦みたいな「エモツイート」もしていて、よくこんなに上手く書けるなぁと感心した。でもそれをみて同時に:「その言葉はあなたの言葉なの?」と思ったことは否めない。なんだかどこかで見覚えのある、クリシェのような。リプ欄をみても明治期の文学みたいな言葉遣いをしている人ばかりで、ホントかよ、と思った。ロラン・バルトがいうようにあらゆるテクストは引用によって成り立っているのだが、そのことを前提にしても彼らの文章には「いかにも」という印象を強くもってしまった。もっと言ってしまえば、それってかっこつけてるんじゃないの?と。でも、その言葉のドレスコードを守らなかったら、彼らの中に入っていくことは出来ない。

 

言葉のドレスコードを守って、あるコミュニティにどっぷり浸かることは気持ちが良い。いわゆる内輪ノリというやつだ。ぼくも散々やってきた。でも、居心地があまりにいいから、そこから戻ってこられなくなっちゃうことがあるんじゃないだろうか。そしてそれはとても寂しいことではないか?

 

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